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長らくお待たせしました、嶋田隆さん新コーナー「マイナーリーグものしり講座」がスタートします。
松井もイチローも野茂も頑張っているけど、ホントに野球が好きなら絶対マイナーリーグ!いやいや、野球が好きでない人ほどマイナーリーグです。その理由はこの講座を読み続ければ「う〜む、納得!」となること請け合いです。
マイナーリーグ(独立リーグ含む)を追い続けて50年以上、訪れたボールパークは200以上というまさに鉄人嶋田さんの(こんな人はアメリカにもいない!)熱く、HOTなアメリカンベースボール話しを聞きましょう。

※このコーナーは「ここが違う!アメリカンベースボール」(嶋田隆・著)から部分的に抜粋し、掲載しています。



第3回 ジャパン野球を変えたウォリー・ヨナミネ

 最近でこそ、アメリカのチームと試合らしい試合ができるようになりましたが、戦後しばらくは日本のチームは彼等に全く歯が立ちませんでした。そんな時、ウォーリー・与那嶺という日系二世選手が1951年、読売巨人軍に外野手として入団してきました。与那嶺選手は元来アメリカではプロのアメリカンフットボールの選手でしたが、巨人軍での彼の活躍により日本の野球ファンはそれまでには見た事もない、全く異質のベースボールを目の当たりにしました。これこそ本場のベースボールでありました。
 彼の二塁への盗塁は、物凄い走塁で、二塁のカバーに入った遊撃手に向かって飛び込んでいきました。審判団はこれを見て、守備妨害を宣し、与那嶺をその都度アウトとしました。だが、彼はこれはアメリカではごく当たり前のプレーで、野手は当然そのダッシュを避けなければいけないのだと何回も抗議し、後日やっと審判団もそれを認める事となりました。選手だけでなく審判員も彼から野球を教えてもらったのでした。今でこそ、当然と思われるこの激しいプレーを当時はなんと乱暴で危険なスライディングなのかと観客からも大いにひんしゅくを買ったものでした。
 そして彼の野球こそが本場のベースボールである事がやっと日本人に理解され、その“迫力とパワー”は我々野球ファンを魅了しました。
 与那嶺選手は出塁すると、必ず次の塁に進塁する事を狙っていました。二塁ベースと同時に野手に向かっても積極果敢に滑り込んでいきました。また、バットスウィングの鋭さにおいても他の選手の追随を許しませんでした。彼は巨人に10年間、中日に2年間在籍し、当時の日本の野球を変えた後1962年に日本での選手生活から引退しました。
 ウォリー・与那嶺ほど戦後のジャパン野球に影響を与え、かつ、日本の球界に貢献した選手を私は知りません。日本中の野球ファンが、そして選手を含む球界関係者が当時の彼の目覚ましい活躍に度胆を抜かれたといっても過言ではないでしょう。
 その後やっと各チームに外国人選手を2人まで入れることが超保守的な日本のコミッショナーから承認され、現在ではやっと1チーム4人(投手2名・野手2名)までが登録でき、一度に3人まで(1人は投手であること)は試合でプレーできるようにまでなりました。今なお外国人選手の活躍は日本のプロ野球を大いに沸せていることはご承知の通りです。       

豆知識  与那嶺 要

1925年、アメリカのハワイ州生まれ。本名はウォーリー・カナメ・ヨナミネの日系アメリカ人。左投左打。外野手。背番号7(巨人)→37(中日)。ハワイのフェリントン高校ではアメリカンフットボールの選手として活躍し、プロのフォーティーナイナーズに入団するが、故障のため、野球に転向。サンフランシスコ・シールズ傘下のソルトレイクシティでプレーしていたときに巨人に引き抜かれて入団し、以後大活躍した。巨人1951〜1960、中日1961〜1962、中日監督1972〜1977(1974にリーグ優勝)。

通算成績(実働12年)
打率.311(歴代6位)、82本塁打、482打点。1,337安打。163盗塁。首位打者3回(1954・1956・1957)最多安打3回(1952・1954・1957)シーズンMVP1回(1957)ベストナイン7回(1952〜1958)
マイナーリーグ写真コレクション
ムニシパル スタジアム(1931〜:メリーランド州)
Municipal Stadium : Hagerstown Suns[San Francisco Giants傘下/1Aリーグ]

 
文/嶋田 隆
写真・構成/オズボーン・ホームラン事業部